市井の人々への好奇心旺盛で温かい目が アートを題材に地域を揺り動かしている

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吉川 由美 さん

吉川 由美 さん

コミュニティ活性プロデューサー
仙台市生まれ。プロデューサー、演出家。コミュニティに文化芸術体験を仕掛け、観光、産業、教育、医療・福祉をクロスする活動を行う。宮城県大河原町の「えずこホール」のコミュニティプログラム運営、青森県八戸市の「八戸ポータルミュージアム はっち」のディレクターを歴任。宮城県南三陸町では2010年から「きりこプロジェクト」、2012年から子どもたちの歌作りワークショップを展開するほか、観光アドバイザーも務める。「きりこプロジェクト」は2013年度ティファニー財団賞受賞。有限会社ダ・ハ プランニング・ワーク代表取締役、アート・イニシアティヴENVISI代表。

プロフィール

Vol.1

ふつうの人のリアルな時間こそがドラマ

活動基盤となる有限会社を立ち上げて25年、今の活動に至る経緯を教えてください。

宮城教育大学で美術を専攻、その流れで教員免許を取得し、小中学校の教師をしていた時期が5年あります。ウインドサーフィンに夢中になっていたので、当初2年は神奈川県で、その後、宮城県に戻りました。全国の学校、特に神奈川県の学校は荒れに荒れていた時期です。

教師を辞したあと、美術系の専門学校で講師をしているときに、広告代理店の仕事を知る機会がありました。美術系の学生に、子どものための工作教室や、自動車ディーラーのディスプレイの依頼があったのです。昼間は講師として働きながら、夜な夜な広告代理店の現場を訪れ、結果的に、企画書の書き方をはじめ、ビジネスの仕組みを学びました。

当時はバブルの最盛期、ファッションブランドビルで、子ども服フロアの年間販促イベントを依頼されたことが、独立のきっかけになりました。これで、食べていけるな…と。

音楽、舞台、ダンス…私自身は躍りませんよ…、美術、そうしたこと全般が好きです。
独立してイベント事業を手掛ける一方で、ダンスの上手い学生時代の仲間と公演を企画しました。私が美術、演出、友人たちがダンサーとして舞台に立つわけです。公演は学生時代にも行っていましたが、30歳を前に、「お金も払ってもらえる、面白い公演をやろう!」ということになったのです。
文化ホールが雨後の筍のように建ち、小さな自治体にも公的劇場が造られた時代で、文化事業を民間でも展開しようという機運にも乗っていました。地元企業から協賛も得られました。何より、若い女性たちによるプロデュース公演はまだまだ珍しいこともあって目立ち、応援していただきました。
この時の経験が、今も自分自身で何かを創り上げようという原動力になっていると思います。

コミュニティをアート(芸術)で活性化する活動とは?

ダンシング・ハード・カンパニーの活動もそうですが、何かを突き破ろうという思いとパワーがありました。ダンスは今で言うコンテポラリー・ダンス、音楽も、美術も新しいことを追求しました。照明の人も、ものすごく張り切ってくれて、技術を駆使した、これまでに見たことのない舞台創りに協力してくれました。「えっ、こんなことできるの?」という反響もあったくらい。参加者一人ひとりが自身の力を出し合って創り上げる舞台でした。

こうして、たまたまゼロから創り上げた舞台が次の仕事につながりました。
NHKの制作会社から全国放送するコンサートの演出の仕事をいただいたり、次々にオープンする文化ホールのこけら落としに「これまでに見たことのないイベントをしてほしい」と、依頼をいただいたり。「こんなこと、誰かできる人いる?」と言う問いに、「吉川さんがいる」と。

次に、こうした活動を見ていた建築家から公共建築物の運営を相談され、立て続けに2つのホールの運営に携わりました。その一つが宮城県大河原町にある「えずこホール」です。
地方のホールの多くは貸館として存在しています。しかし、えずこホールは、住民が参加できる文化プログラムをきちんと持った、全国でも数少ないホールとして運営されています。予算規模が少ないにも関わらず…。

たとえば、ベルギーからコンテンポラリー・ダンサーが来日すると、住民向けのワークショップを開いていただく。そこでは、70歳のおじいさんもコンテンポラリー・ダンスを踊っているという場面が展開します。ダンサーだけのダンスと、子どもや老人が参加したコンテンポラリー・ダンスを比較すると、後者が圧倒的に面白い。芸術家にとっても、予想もしないことが起きる刺激的な体験となるので、喜んでいただけます。

えずこホールで市民劇団を運営しているうちに、お年寄りにセリフを覚えてもらうのは無理だな…と気づきました。そこで、彼らが生きてきたリアルな人生をワークショップで演劇化する方向に変えました。

今ここに80歳の老人がいるとします。私たちはふだん、よぼよぼになった老いた姿しか見ていませんが、その人にも17歳のときも、40歳のときもあったわけですよね。
あるとき、そんなお年寄りの一人に「17歳の頃は、何をしていらしたんですか?」と問いかけると、「特攻隊だった」と思いもよらない言葉が返ってきました。土浦の航空士官学校にいて、同期の半分は終戦間際に沖縄行きを命じられ、翌日の特攻で全滅、三沢行きを命じられて生き残ったのだと…。「40歳の頃は?」と尋ねると、「ブラジルで、鉄鋼会社の支店で働いていた」と言うんです。その後、定年して仙台に戻り、アイススケートリンクを造る会社を興したと…。
すごい、ステキな人生じゃないですか。私は人の見方を間違っていたと気づかされました。

ふつうの人ほど奥深く、ふつうの人の人生ほどドラマがあるということを教えてもらいました。住民との芸術的な活動が、町を元気に、人生を豊かにする体験でした。
四半世紀を振り返ると、何かが変わる節目、節目に、立ち会ってきたんだなぁと思えます。